キリトリセン

「蛍」
 急に名前を呼ばれ、僕は振り向いた。
 彼の部屋で、しとしとした緊張感の消えうせた空間を二人で作っていた。それは自ずと作ろうとするものではなく、二人から放たれた気の抜けた魂のようなものが纏まって一つのものになっているだけだ。好きなだけその魂が一つになっているからか、僕は満足して気の抜けた顔をしているに違いなかった。それなのに間抜け面が更に酷くなった。
 それは体内に埋め込まれた蕾が一瞬に開花し、心臓を巻き込んだようだ。赤子を見て、口角を自然とあげるように、言葉などいらない。そんな風に胸が苦しいのである。
 僕はもがいている。だから、表情が定まらずに顔の筋肉がぎこちなく彷徨う。自分を取り戻そうとするけれど、頭の中は弾けていて使い物にならない。
 彼は凛としていた。だけど、その瞳の奥に何かあるとは限らない。彼は黙っているだけで、何かを抱えているように見えた。黙っているのに、その顔面だけで今まで何かをこなしてきたようにも見えた。
 けれど、過去がそうであっても、現在、たった今は分かりきっているとは限らない。その経験を生かして、彼は確かめようとしているのかもしれない。凛とした顔は、理解をしようとする意思の表れだ。
 僕はそれに応じられず、恥じた。彼の真っ直ぐな挑戦に不意打ちを食らう。
「名前、呼んでみたかった。お前の名前は響きが綺麗だから」
 彼は淡々と言う。恥ずかしいことをさらりと、僕だったらそれを伝えるまでに幾らも時間を掛けるであろうことを。
 蛍を見た。そう彼は話始めた。
 夜に、ジョギングをしていると、水辺の草むらからから一匹横切ったのだという。思わず足を止めた。ゆらゆらと上下に動いていた。影山の目下に切り取り線を引いたようだった。
 僕は歪んだ表情が、彼が話し始めると徐々に自分を取り戻していった。落ち着きを与えるような声の変化の少ない話し方だった。
「もう……いるんだね」
 そう僕が聞くと、ああ、と彼は僅かに頬笑みを浮かべた。
 分かりにくい、僕にしか分からないような。僕にしか分からなくていいような。
「蛍、綺麗だな」
 僕はまるで自分のことを言われたようで、顔が再び歪んで、赤面した。

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