目の前(前篇)

どうしようもなく胸が痛くなる時がある。
それは突然に起こる。けれど痛みは痛みだけれど、我慢できないような痛みではないので対して態度に変化は見せない。医者に見せたって何も変化はありませんよ?と薄ら笑いで馬鹿にされるのが落ちだ。
この胸の痛みは大概、真ちゃんの横にいる時に起こりえるものだ。
俺自身は単語にしないだけでなんとなく理由は分かっているのだけど、どうも納得したくない。
真ちゃんが何をしている所で胸が痛くなるとか、一々意識なんてしたことはない。そう考えていなくても体はちゃんと意識しているらしい。
例えば汗で濡れている真ちゃんとか。
誰もが練習中も試合中も汗まみれだっていうのに、真ちゃんにだけ目が釘付けだ。可笑しいはずだろ?眼鏡をかけてバスケなんてしていなそうな男が必死に食らいついて汗を流しているなんて、普段の俺だったらきっと笑ってるね。真ちゃんを知らなかったら確実にそうだろうな。
今日も相変わらず練習。同じような練習でマンネリ化しそうだなとふと思った。
だけど基礎が大事なのでそんなことは言っていられない。心意気が大事だ。
キャプテンが普段も唯でさえ堀が深いのに、もっと濃くして初め!と言うと、さらさらほど無かった緊張感がどこからともなく湧いてくる。
お互い仲間だけど、今は敵同士になってボールの取り合いをする。
さっきまで隣にいたけど真ちゃんとはチームが違う。
お互い向き合い、空気の張りつめた中、動きの一瞬の油断を狙う。
時間が経っているのにスローモーションみたいで、実感がない。
そして知らぬ間に汗は出て、乾いた服を湿らせると、髪の先から雫がぽたりと落ちる。動いた瞬間に激しくそれは飛び散ると真ちゃんの香も一緒に飽和されているみたいに広がった。
飛び散った汗から出た匂いは勝手に鼻腔に侵入する。拒める方法など無い。
その時俺の体はいつも通り胸がキュッと握りこまれる。
またかと不安が過った。
拳でも自分の中にあるんじゃないか。いつも俺の心臓を握っていてタイミングを計って握りこむのだ。いつか最悪なタイミングで思い切り握りしめて潰してしまわないだろうか。
 その拳は一体誰だ?真ちゃん?
 そんなことを考えて、若干嫌だなぁと思いつつ、今やっていることの真剣さが無駄にならないように意識を切り替えようとしたら、今度はドクンと大きな脈を立て、一瞬眩暈にも似たように見つめていた真ちゃんごと視界がグニャリと歪んだ。
 これはそろそろ限界かもしれない。直感で頭に過る。
 熱い息が出ているのに冷や汗が流れ、いつもの胸の痛みが今までの痛みを集めたみたいに俺に知らしめる。俺は十分分かっているからそれ以上そんなことはしなくていい。
 自分に言っても言葉だけじゃあ伝わらないようだ。自分の体の癖に自分で制御出来ないなんて不自由で仕方ない。理性を働かせ、体の訴えているものを抑えつける。
真ちゃんは俺をじっと見据える。
真ちゃんと向き合いながら、自分自身がそこに重なり同じ目で見据えた。
「ごめん」
 俺は目を反らして、体の力を抜き、練習する姿勢を解いた。
 強張っていた空気が緩くなり、変わりにふわふわとした疑問の表情が沢山浮かぶ。
「どうしたのだよ」
「気分悪くなった。休むわ」
 それだけを言うと俺は真ちゃんからは何も言わせないように、すぐさま背を向けてキャプテンの所に行った。コートの一部が静かになり俺を皆が見つめている。
 体調が悪くなったと言うと、俺の表情にも出ていたのか、キャプテンは分かったと頷いた。体調管理もしっかりしろと、改めて当然のことを意識させる為に何個か注意を言うと、帰っていいと許可をもらった。監督にも言っておいてくれるらしい。それは少し助かった。もう一度帰るということを伝えにいくのには中々神経を使う。帰ると言った瞬間の疑問の顔が中々胸を刺す。一度だけで十分すぎるほどだ。
 俺がコートから出ている内に練習は再開された。切り替えるぞと大きな声が発せられ、俺がいないだけで変わらない練習がそこにあった。
 みんなの目ももうこちらは向いていなかった。だけど真ちゃんは取り残されたように俺を見ていた。ざわざわとした中で一人浮いて。
 体の様子はぽかんと何かを抜かれて重力を失っていた。前に進む力もどこから出ているか分からない。ねじまき人形のねじが終わるまで何も頭に浮かばずただ足が交互に動いているそんな感じだ。家についたらねじは一切動かないだろうな。
 体調の様子は悪くない。あの場所から出ると空気が俺を起こすようにぶつかってきて、胸の痛みも引いていた。
 違和感があると思ったらチャリアカーを引いていない。いつもの道もそれだけでなぜか新鮮に見えてしまった。
 バタンとベッドに倒れこむ、誰もいない家をこんな時間にひとり占めできるのは久しぶりだな。電気をつけていなくても薄暗い程度で済んだ。薄暗い方が眠たくなくても目を開けたまま意識から遠ざけることが出来た。
 今日は本当に酷かった。今までの中で一番。
 あそこに立っていたのは同じ目をした俺だった。だけどあんな表情なんて出したことなんて無かった。不似合いだ。
 どんどん酷くなっていったらどうしようか。真ちゃんから離れてしまえばこんなことに合わないだろうか。それって逃げているんだろうな。真ちゃんからも俺からも。
 恰好悪いな。
 うつぶせでもう全部持って行ってもいいぜと重みを全てベッドに受け渡している。
 ベッドは逃げずに支えてくれている。ありがたいことだ。どんな俺だっていいんだ。意思がないことが少し淋しいけど。
 大分して携帯で時間を見てみると一時間がすぐさま去って行っていた。少し勿体無い気がした。
 いつもの一時間でやっていることがフラッシュバックされ、練習したかったなと後悔した。起き上がっても勉強なんてする気がしないし、とりあえず真っ暗に変わった部屋の明かりを着けた。ふうとそれだけの動作で息を吐いた。切り替えの合図だ。
 だらだらと結局は時間を過ごし、家族は帰ってきて、今日は早いのね?と母さんが聞いてきたので、体調悪くなって帰ったっていうと、元気そうじゃないのって不思議そうに言われ、まぁ結局は元気だから良くなったんだよってそっけなく言っておしまい。
 これで風呂入って、飯食って、寝たらリセット。
 明日はちょっと聞かれるかもしれないけど、元気になったって言っておけば誰も突っ込んできやしない。
 携帯がブルブルと揺れた。真ちゃんからメールが来ていた。
【家の前にいる。出てこい】
 体調悪いって帰った奴にこれはない。そして明らかの強制である。
 胸の拳にわずかに力が入る。これは今から握りつぶされそうな予感がして堪らなかった。
 

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