sigh

優しくされているだけでは、見えないものが、たまに酷く恐ろしくなる。どこに隠したって、見つけてしまうさ、いつか。欲しいものは、作られたものだけじゃない。
もっと猟奇的でもいい。強く、求めて、己のまま壊すぐらいで丁度いい。その方が、隣に居てもいい理由になるだろう。それに自分に言い訳だって出来るのだから。

「ロマ、また皿割ったん?」
スペインは、しゃあないなと優しい母親のように問いかける。
「皿が勝手に割れたんだよ」
ロマーノは顔を背けた。足を組んで、テレビのリモコンに手を伸ばす。チャンネルをころころと変え、ろくな番組がないことを知り、舌打ちをする。そして電源を切った。見る気になれなかった。
座っている椅子は、ロマーノより、一回り大きい。手を置けるスペースがあるので、そこに肘をついて、顎を支えた。自分の殻に閉じ籠る。
「怪我大丈夫やったか?」
「大丈夫っつーの!」
心配するスペインに強く当たる。苛々は増すばかりだった。
「そりゃあ、よかったわ」
「お前さ、他にも言うことあるだろうが」
「他に何があるん? 親分、ロマに怪我なかっただけで、良かったんやけど」
誤魔化すなと、キッと睨み付けるが、スペインは分かっていないらしい。確かにあったのに、本人がそんなことまで、帳消しにしている。これは、大切にされているからか?
「皿……そのまんまにしてただろ」
事実が、いけないことだと知っていたので、自分の口から伝えるのが億劫だった。
 その時は、気が向いたので、皿でも洗おうと思った。二人分だし、暇だったので、その程度ならやってもいいと思った。余分なほど洗剤をスポンジに含ませる。平たい皿の表面を、くるくると回しながら洗う。汚れはすぐとれそうだ。意識はもう次の皿に向かっていた。
 しかし、泡だらけだった手のひらを滑るようにして、皿は落ちた。落としたと気づいた時には、陶器の皿が割れた音がした。
皿は大きい塊をいくつか作り、割れ、小さい破片は勢いと一緒に飛んでいった。
その時、立ち尽くした。壊れる皿と一緒になった気がして、しばらく呆気にとられた。破片は拾わずにそのままにした。自分自身を慰めるように破片を拾うのが、とても虚しくなったのである。
「そんなことか。ええで、別に」
「お前の、そういう所が嫌いだ」
 なんでもかんでも許そうとする所が気に入らない。人を殺したって許してしまいそうだ。
「前は俺に見つからないようにやってたのに、今回はどうしたん?」
「片付けるのが面倒なだけ」
「ロマさっきから、まるで俺に怒って欲しそうな態度しとるな」
 スペインは椅子の横にしゃがみ、ロマーノと視線を合わせた。一瞬目があっただけで、ロマーノはすぐ逸らした。真っ直ぐな目が痛い。
「ええよ、もう」
 スペインは立ちさる。きょとんとその後ろ姿を見る。支えていた肘の重心が変わり、体が半分ずれ落ちた。
 呆れられた? 不安になり、視界が曇ってくるのを我慢する。涙を半分ほどで止め、鼻水も零れないように吸った。少しだけ涙がこぼれた。それを裾でふいて、これ以上零れないように、片腕で両目を抑えた。
 知られないように、それだけ意識していた。そんなに自分は弱くないはず。言い聞かせる。
 皿は当然片付けられていた。スペインが、先ほどこちらに来る時には既に片付けていたのだろう。
 破片が一つだけ、落ちていた。死角にあったので、拾い忘れたのだろう。それを拾う。じっと見ると、親指と人差し指の間に挟み、摩擦した。指から赤い血が、雫のようにぷっくりと出てきた。濃い、赤。もう一度、摩擦する。傷は開かれる。親指と人差し指に広げられて薄くなった血がつく。痛みは今の方が痛かった。
 破片を捨てる。じりじりと傷んでいる傷をしばらく見ていた。血はまだ少しずつ溢れていた。
 拾い忘れた破片で傷つけると、許された気がした。取り残された破片が、まるでスペインから怒られる為に用意された物だ。遠まわしに提示しているのだろうか。
 乾き始め、ベタベタとしてきた指を水であらう。知られないように絆創膏はしない。そんなに深い傷では無い。痛みが心地よかった。
 血が止まり、目立たなくなった。少しぴりぴりとしているぐらいだ。この程度なら気づかれないだろう。

 それから、この行為を繰り返すことになる。
 物を不注意に落として壊したり、しなければいけないことを忘れたとする。その時はまだ傷つけない。そして、決まってあの時のように処理はしない。スペインの様子を見る。
 スペインが怒りを見せない度に、傷口を摩擦して開いた。
 怒りを見せたことなど、当分前からない。あれから一度も無かったので、それを行う回数は、物事を起こす度に重なった。
 指は化膿していた。それでもやめようとはしない。これを行う度に、清算された気分になれるのだから。
スペインはやはり鈍感なのか、気づきはしなかった。それとも気づいていたのだろうか。片付けられる度に、その綺麗になった光景を見て、傷つける。胸がとても苦しいからだ。
 毎日食事を向かいあって、二人で食べる。時間は気分で、その日によって違う。今日は少し早い。7時ぐらいだ。
「明日はどっか行こうか。最近、どこも出てないやろ? ロマ暇そうやしな」
「どこ行くんだよ?」
 固い肉を、フォークで抑え、ナイフで切ろうとするが、中々切れない。カチャカチャと行儀の悪い音がしている。貸し、とスペインはロマーノから皿を受け取ると、それを切ってやった。
「どこがええかな。ロマーノの行きたい所でええで?」
「行きたいとこねぇ」
 考えるが、対して想い浮かばない。
「ほら、切れたで」
「わりぃ」
 肉が食べやすいように、等分に切られていた。無意識に片手を出し、それを受取ろうとした。
「なんやねん、これ」
「あ……」
 皿を受取らずに、焦って手を引いた。拳をつくり、傷を隠すが、しっかりと見ているスペインには、誤魔化しようがない。
「その傷は、一度切ったとかや、無さそうやな。広げらとるように、見えたんやけど」
 確信して言う。
「確かに、最近なんかおかしいとは思っとったけど、それとその傷は関係しとんか?」
「ああ、お前が呆れた数だよ」
「ん? 俺の呆れた数? 一度だって、お前に呆れたなんて、言うたか?」
 言ってなくたって、分かる。ミスをする方も、自覚している。無意識にミスをしても、そのミスはずっと付きまとっている。その数が多いのだから、呆れられないことなどない。自分自身だって呆れているのに。
「いいや。言ってはないな」
 あっさり片付けられる物事に、その意味は含まれてはいたが。
「もう、したらあかんで。絆創膏取ってくる」
 スペインは立ちあがった。
「スペイン」
「ん?」
 名前を呼ぶと、傷口をスペインに見せる。そして、スペインが傷口に注目すると、普段と同じように傷口を開いた。けれど、今回は抉るように、いつもより強く。
 血がしたたり、数滴落ちる。
「呆れた、だろ?」
 その声に力は入っていない。
 スペインはナプキンで、傷を抑える。力が弱くて痛くない。被せられているだけのようだ。血が滲んでいく。濃い赤が広がる。
 そして、スペインはそこから離れていく。
 涙が止まらない。今まで傷を作る度に、我慢していた涙が解放されたように、流れていく。
ナプキンに顔を埋める。涙が浸透し、傷口に染み込み、痛い。ただ痛いだけだった。
求めていたものは、自分を傷つけてもいいというほどの必死さ。対等に見ようとする目。
ここにあるから、さらけだせと誘導しても、見ないふりをする。隠していることはわかる。
なのに、欲しかったものを見つけさせてくれない。気づいていることすら、隠している。

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