猫が一匹目の前を通った。
「ミャア〜」
思わず赤也は猫を追いかけた。理由などただの好奇心だった。
だが面白いことに猫はまるでこちらを誘導しているかのように道路の端を赤也の歩くペースに合わせて歩く。
真っ黒の猫は野良猫だというのに毛並みが良く、野良猫のようには見えなかった。
だがなんとなく首輪をしていないからか野良猫なのだと思った。確信は出来ないが人慣れはしていない。
触れようとすると威嚇をする。きつい目で触れるなと猫の雰囲気が変わる。普通の可愛らしい猫だと思ったら間違いだった。
人のいない路地を歩く。何故だか人間の通る道しか通らなかった。だからかまた赤也も足を止めることが出来ない。
体は部活帰りでもう動きたくないと何かが乗ったように重かった。それでも足が動く。
猫と出会った場所から五百メートルほど歩くと小さな公園があった。
公園と呼ぶのに相応しくないほど小さく遊具は滑り台だけが設置されていた。
その滑り台の下で見覚えがある人間が座って餌をやっている。
「丸井先輩?」
不思議そうに声を出すと、ブン太が掌にえさを乗せ、五匹ほどの猫に食べさせていた。
「赤也?……なんでここにいんの?」
掌の餌がなくなり猫達がみゃあ〜と無く。
その声でハッとし、ごめんなと猫に言い、撫でると、すぐさま新しい餌を出した。
猫は威嚇も抵抗もせず撫でられていた。
「この猫が俺に着いてこいって誘導したんスよ。へー、先輩がいつも餌やってるとは思わなかった。猫のエサでも食ってそうなのに」
「お前な!おれはそこまで食いもんに困ってねーよ。それになんで俺がいつも餌やってるって思うんだよ」
「だってさ、その猫俺にはすごく威嚇してきたんスよ」
黒い導いた猫はここに着いたと同時にブン太の傍に行った。そして頬をブン太の足に擦りつける。
先ほどの威嚇など微塵も見せていなかった。まるで違う猫のように。
「あーコイツかあ」
ブン太は猫を持ち上げた。すると猫の腹の毛が白くなっていた。
「そいつ腹白いんだ」
「そうそう。俺も始めは驚いた。全身綺麗な黒で本当にどっかの家で大事に買われてんのかと思ったくれーに」
「やっぱそれ野良猫なんスね」
「だぜ。よく分かったな、お前」
「いや、なんとなくッスよ」
「いわゆる勘?」
「はい」
「こんなに綺麗なのに野良なんて信じられねーよな」
黒猫に手で自ら餌をやる。
すると食べ終わった猫が再び一斉に鳴きはじめた。
「今日は終わり。もうやらねー」
そんな人間の言葉なんて通じるわけもなくねだる。
「あーあ。どうするんすか?」
「帰る。俺が歩きだしたら餌が無くなったこと分かるからな」
ブン太は立ち上がった。
じゃあなと他の猫達を撫でていく。すると猫たちは別々の場所にばらばらと向かいだした。
だが黒猫だけはブン太の傍から離れない。
「お前、また送ってくれるのか?」
そう笑いかけると猫はみゃあと鳴き、先頭を歩きはじめる。「行くぞ、赤也」
「は?」
「帰るんだよ。こいつ途中まで送ってくれるっていうし」
「あ、はい」
少しばかり驚いた。猫の言葉を分かるブン太と人間の言葉を分かっているような黒猫に。
「先輩、猫の言葉分かるんスねー。関心、関心」
「分かんねーよ。全く」
「でも会話してんじゃん」
「お前本当に馬鹿だなー。あんぐらい慣れれば分かるっつーの」
「やっぱ結構前から来てたんスね」
「ああ。猫があんなに増えると思わなかったけどな。最初はこいつだけだったのに」
「こいつが仲間を増やしたってことスか?」
「いや、他の猫が勝手に寄ってきただけ。でもあんまり集まると色々やばいのこいつらも知ってる癖に」
「野良猫に餌とかやったらいけませんもんねー。先輩もそろそろやばいんじゃねーすか?」
「やばいけど、こいつがここまでしてるとなんとかしてーよな」
踏切の前で猫は立ち止まった。
「じゃあな」
一度返事の様に鳴いた。そして赤也達がそこから少し距離を離れて曲がり角に入るまで猫はそこに待っていた。後ろを振り向くと小さくなった黒猫が見える。
「あいつはさー。みんなの飯守る為にここまでしてんだよ。ねだって食うだけだったらそれだけで終わるだろ?こういうことをしてまた来てくれって印象付けてんの、頭いーよな」
「だから同じ格好の俺の所に来たんスね」
「後、臭いがしたんだろ」
ああっと思い当たる節がある。
少し恥かしくなった。今日も体を繋げていた。
「俺も餌やれば良かった。なんも手持ちなかったし」
「お前はやらなくて良かったよ」
「アイツらまだ食いたそうだったのに?」
「懐かれたらまた猫が増える。そうしたらあいつらはもうあそこに行けなくなる。俺もこれ以上猫が増えたらもう行かねー」
「愛着があんなにあるのに?」
「そんなもの、捨てねーと生きていけねーよ。あいつだって、いつ俺に捨てられるか分からねーから新しい奴連れてきたのに」
あの猫に心をとらわれてしまえば毎日のように向かい餌を渡してしまうだろう。そんなことをしてしまうと近い内に猫達は駆除されるかもしれない。
だからとらわれない様に頻度は高く行ってないに違わなかった。
愛着などとうの昔に湧いている癖に、それに気付いていないのだろう。
愛を知りながら愛を何か知らない。
「先輩もあの猫みたいに俺に餌を持ってきて下さいよ」
「悪いけど俺は言われてやる人間じゃねーから」
「みゃあ」
先ほどの猫の真似をしてみる。家まで送ると伝えるように猫のように少し前を歩き振り向く。
「ったく。仕方ねーな。おい、赤也!」
前を歩いている赤也は呼びとめる。
「みゃあ?」
足を止めるとブン太が傍に寄ってきた。
すると赤也のネクタイを引っ張り、顔を近づけさせキスをした。それは軽く唇が当たる位のだ。
「そのキス餌の五十年分の価値はあるぜ」
「百年分の価値を下さい」
「お前がその分俺に尽くしてくれるならな」
「尽くしますとも」
そう言って笑った。
次の日、赤也は一人だけであの公園に向かった。あの猫は居なかった。
赤也じゃ駄目なのかと思っていると、見覚えのある違う猫が一匹現れた。付いてこいと黒猫のように赤也を誘導する。
少し歩いたマンションの裏に昨日の黒猫はいた。
その黒猫は腹に血を出し、一部分白かった所が赤くなっていた。動く様子がほとんどない。
周りには昨日の猫達が囲んでいた。
赤也は黒猫の近くに寄る。
病院に連れて行こうと思い、黒猫に触れようとすると周りの猫立ちが威嚇した。
それはまるでここで最後を見送ってやれと伝えている様だった。
猫の呼吸がとてもゆっくりだ。
こんなときに偶然出会った赤也が見送ることになるなんて。
自分ではなくブン太が傍にいて欲しかっただろうに。
「俺でごめんな……」
ミャ・・
途切れた小さな鳴き声をを出す。
その声と共に猫の命が消えた。
そばにいる感覚はある。命が消えたという感覚は全く無かった。
起こることは全て急で、それを納得する時間が生き物に残されているのだ。それが生きることなのだと思う。
猫の近くにブン太が持っていたリストバンドがあった。
大事そうに傍に置いてある。
もしも、偶然ではなく赤也がここに呼ばれたとしたら自分の姿をブン太に見せない変わりに、事実を猫は受け止めて欲しかったのかもしれない。
猫はもう熱を失っていた。
赤也があの公園に向かうことは無くなった。
今でもブン太が偶に足を運び、黒猫の話をする。
消えてしまったと。
赤也は言えなかった。だけど自分の心の中には残っている。