暗雲

 自分がやった行動というものは、後から考えてみると後悔するものが多い。それも意識的にやるもの何か特にそうだ。その時は何も考えていないのだが、後から考えてみると無性に恥ずかしくなったりする。けれど、今の状況はそういうのには当てはまらない。
喧嘩などはやってしまった、と思わないものだと思う。頭に血が上っていたのかもしれないが、殴った時には既に自分は納得していた。これから、起こることは予想していたから、まあそれなりなんだと思っていた。

「お前ら、誰の文句言ってんだよ」
「誰だよ、お前」
 三人がブン太を睨みつける。同じ学校である証に、制服を着ているが、顔は見たことも無い奴らだ。それに柄もよくないらしく、平気で煙草を吸っている。
「お前らに名前なんて教える必要ねーだろーが」
 ドンっと三人の中の一人の顔面を思い切り殴った。その一人は反動で後ろに倒れこむ。鼻を押さえ、血は出ているが、勢いで殴りつけてくる。ブン太はそれを受け止めると、今度は腹を蹴った。
「ぐはっ!」
 相手は口から唾液を飛ばしながら、後ろに後退している間にもう一度、蹴る。
「何すんだよ!」と、荒声を出しながら残りの二人はブン太に殴りかかった。一人を受け止めると、もう一人の殴りかかりを止められず、腹に当たった。咳を出しながら、片膝をついてしまうと、それを好機に二人はまた一斉に掛かってきた。何度が腹に殴ったり蹴られたりで、吐血しそうになる。
「おい、どけ。これがある」
 先ほど殴られて、後退していた男は鞄から小さいカッターを持ち出していた。刃を前に出すと、ブン太の前に先ほど殴られた所を押さえながらのろのろとやってくる。
ブン太の前まで来ると、カッターを振りかぶってきた。
流石にそれは危ないと、腕で守ると縦に傷が出来たが、相手が弱っているせいなのか傷は浅い。だが、このまま上から刺されてしまったら、傷は深くなるだろう。
「お前、切原の知り合いか?」
ブン太は立ち上がり何も言わない。
「あんな奴なんてな、死んだ方が平和なんだよ」
 再び、カッターがブン太を襲う。だが、振りかぶってきたカッターをブン太は手で掴んだ。血がぽたぽたと流れる。
 それに驚き油断している相手を、片手で殴り飛ばす。残りの二人も我を忘れた様に殴り倒した。
そして沈んでいく夕陽と共にブン太はそこに座りこんだ。三人は負け犬の様に、後ろを一度向くと、殴られた個所をそれぞれ押さえながら消えて行った。

 何をやったのなんか気にもしない。もう、どうでもいいなんて感じてしまう。赤也の為にだとか、そんなつまらないことを考えることが必要無いなんて思うほど馬鹿げたことをしてしまった。
結末は多分、良くなく終わってしまうのだろう。自分がやってしまったせいのだから、文句の付けようもないのだけれど、どうでもいいと考えている限り、それでいいのだと思う。自分が後悔していなければ、気分は澄んでいるし、他の誰かに文句を言われても受け流すことが出来る。だから、いいのだ。それで。
「見つけた」
だが、予想外だったのは赤也が路地なんて所に、駆けてきたことだ。ブン太を見つけるとそこで前のめりになって、呼吸の音が聞こえるほど荒く呼吸を繰り返す。
何でここにいるのかと問いただそうとした時には、力強く抱きしめられていた。呼吸の音が先ほどより、大きく聞こえた。誰もいない路地で、その呼吸が響く。
二人がそこから動こうとしたのは随分経ってからだ。その時は確かに永遠を感じた様に、時が止まっていた気がした。変わっていたのは、赤也の呼吸が段々と静かになったぐらいで、他には何も変わっていない。景色も体温も目の前のままだ。
無性に馬鹿らしくなってしまう。自分がしたことで、こんなにも赤也が必死になるとは思わなかった。どこから探しに来たのだろうか。この暗闇の中で、一つ一つを自分だけで探しまわったのだろう。息を切らしていたのが尋常じゃなかったのだから、ずっと走っていたのだろう。本当に、普段そういう所見せればもっと可愛げがあるものを、いきなりそういうことをするから自分が痛々しくなるじゃないか。赤也のことを好きなのだと再認識してしまう自分が、本当に可笑しい。

 消毒液を塗っている最中の赤也は、無表情で淡々としている。そして何も言葉を発しようとはしないので、ブン太も何も言おうとはしなかった。傷に消毒液が沁み、声が出そうだったが、空気を乱すような気がして声を無理やり押し殺した。怒っているとは違うようだが、何を考えているのかは分からない。 
一度、赤也の家の絨毯を自分の血で汚すのは申し訳なくなって、ブン太は玄関でやはり自分の家に帰ると言った。だが、赤也はそんなことは気にしていない様で片手を引っ張り自室の中に入れた。確かに、家に帰るよりは気持ちは楽だが、けれどこんな風に会話が行き詰っているのは辛い。ここまで来るまで、赤也におぶさっていた時も会話は何もしなかった。
全身が消毒液に包まれ、その臭いに気分が悪くなり吐きそうになった。傷は消毒されているのに、体はべたべたになっていて気持ちが悪い。そんなに傷だらけになっていたなんて、対して気にしなかったから気付かなかった。無駄に切り傷みたいなのが多いなと思えば、そこから血が溢れていて、服がやけに血だらけになっている。
「先輩、もう俺に黙ってそういうことするのやめて下さいよ。嬉しくねぇんだよ、そんなことされても」
 消え入りそうな声で、俯き、酷い表情をしているのか顔をあげようとはしない。
お前の為なんかじゃないと、そう言ってしまいたいけれど、何を言っても赤也は納得をしてくれそうではなく、そして、それ以前にその浮かび上がった言葉が酷く言い訳になる感じがして、「ごめん」と口からから出てきたのは謝罪の言葉だけになった。
 赤也はブン太の傍に行き、抱きしめる。それには力が籠っていて、もう離さないと言っているようだ。好きなんだ、純粋に好きなのだと、胸の中はそれしか浮かんでこない。
「ごめん、好きだ」
 再び浮かんできた言葉は、もう赤也を納得させるものでしかなくて、それでも自分の気持ちには嘘をついているわけでもない。何度でも抱き合いたいと思った。こんなにも自分を想ってくれる赤也がとても愛しい。だから、ごめんと素直に思うことにした。どうでもいいなんて、思ってしまったら、まるで赤也の気持ちを投げ捨ててしまうみたいだったからだ。

「今日は、悪かったな」
 玄関で、申し訳なく言った。本当に迷惑を掛けてしまったと心底思う。もしも、あの時に赤也に会わなかったとしても、いつかは赤也に知られることになるだろう。ブン太と喧嘩した奴らも、赤也の所に行っていたかもしれない。そうならば、今度は赤也が知らぬ内に被害に合っていたかもしれないのだ。
「先輩、やっぱり送るっス」
「いや、いい。迷惑掛けたし」
 そう言うと、赤也は少し不機嫌な顔をし、早急に靴を履いた。そして、ブン太の右手をとると、玄関からその手を引きながら出る。その不器用な優しいエスコートにブン太は少し笑いが出た。
外は寒空だけれど、赤也の体温がじっくり伝わってきて、それもいいと感じる。少しばかり、頬を赤くしている赤也は照れた様に顔を逸らすが、それをからかうと、そんなことないとこっちを見てくるのが、意地っ張りでいいと思った。
いつからこんなに弱くなったのだろう。自分は大丈夫だと思うのに、赤也が傷つくことが酷く怖い。好きだとは確かに思う。だけど、また、それに加えて弱さも増えていっているのだろう。それは赤也も同じはずだ。もしも、自分が赤也の重みになるならばどうすればいい?自分は離れがたくなっている。そうしたら、赤也が自分のテニスを出来なくなってしまうかもしれない。
「好きだ」
 今はこれしか言えない。自分の気持ちに素直になると、これしか言いたくない。
「俺も好きっスよ」
 そう純粋に言う赤也を見ているのが、辛くなった。どこまでいけばいいのだろうか。
勝つためだけに、自分たちはなにを捨てて行けばいいのか、具体的にそんなことを教えて欲しかった。そう思えば、今日の浅はかな行動が、気持ちだけで動いていたのだとよく分かる。試合中は冷静にならないといけない。試合中に自分を見失ってしまえば、優勝など到底できないだろう。
 誤魔化すように、空を見つめた。雲が敷き詰められていて、月がどこにあるのかも分からない。心が空に吸いこまれそうだ。繋いでいる右手がなければ、もしかすると気持ちを捨ててしまっていたかもしれない。右手に力が一度入った。離したくない。
 勝つためでも、気持ちは捨てられそうにはない。


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